【2006年1月2日】 1月2日の報道機関各社によると、プロ野球中日ドラゴンズ等で投手や監督を歴任した近藤貞雄氏が、同日午前9時22分、東京都内病院で呼吸不全のため亡くなった。80歳だった。

朝日新聞、日刊スポーツによると、近藤氏は愛知県岡崎市の出身。旧制岡崎中学から法政大学を経て1943年、西鉄軍(現在の西武ライオンズの前身の西鉄クリッパース、西鉄ライオンズとは別の球団)に入団。西鉄軍が解散した1944年に巨人軍に移籍し、1946年にはエース格の投手として23勝を挙げたが、その年のシーズン終了後には右手中指の腱を切断する重傷を負った。しかし1948年に中日に移籍するとそれを見事克服して復活。その奇跡の復活振りは「人生投手」と題した映画にも取り上げられた。1954年にて現役を引退。

引退後は中日、ロッテオリオンズのコーチを歴任後、1981年から中日、大洋ホエールズ日本ハムファイターズの3チームで監督を経験。特に中日のコーチ時代には投手に先発や抑えといった分業制を取り入れるなど「アイデアマン」という異名が取られたことで知られた。

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