訃報 サイモン・ヴィーゼンタール氏
【2005年9月21日】 ホロコーストの生き残りで「ナチ狩り」として知られ、自身の名を冠したナチの戦犯追及組織サイモン・ヴィーゼンタール・センターを創設したサイモン・ヴィーゼンタール氏が、オーストリアのウィーンの自宅で20日の朝(欧州中央夏時間、UTC+2)死去した。96歳だった。
ヴィーゼンタール氏は1908年12月31日オーストリア・ハンガリー帝国領のブチャチで生まれ、プラハで大学生活を送った。卒業後はポーランドに住み、独ソ不可侵条約によりソ連がポーランドに侵攻した後は工場で強制労働に従事した。1941年にドイツが同条約を破り、ポーランドに侵攻すると、ヴィーゼンタール氏は捕らえられ、強制収容所に送られた。いくつかの強制収容所に収監された後、1945年5月にマウトハウゼン強制収容所(現在はオーストリア)で解放された。
ヴィーゼンタール氏は第二次世界大戦後のほとんどすべての人生を、ナチ戦犯の追求にささげた。1947年に、30人の仲間とともに、オーストリアのリンツにユダヤ人文書センターを設立した。ユダヤ人文書センターは、戦争犯罪人とその犯罪についての文書をどのような種類であれ集めることを目的とした。しかし米ソ間の冷戦は、急速にナチの戦争犯罪の追及から世人の関心を失わせた。1954年、ヴィーゼンタール氏はリンツの文書センターを閉鎖したが、自身が追跡に協力したアドルフ・アイヒマンの逮捕が成功したことで、活動を続ける希望をもった。ヴィーゼンタール氏の最大の成功は、おそらくトレブリンカ強制収容所長フランツ・シュタングルの捕獲と裁判であろう。ヴィーゼンタール氏は、1977年にアメリカ合衆国に設立したサイモン・ヴィーゼンタール・センターと共同で、約1100人のナチ戦争犯罪人を発見し、裁判を受けさせた。けれどもヴィーゼンタール氏は、ゲシュタポの責任者だったハインリッヒ・ミュラー長官とアウシュビッツの主任医師で「死の天使」といわれたヨーゼフ・メンゲレ医師を捉えることはできなかった。
ヴィーゼンタール氏の人生は論争と無縁のものではなかった。自身ユダヤ人であるブルーノ・クライスキー・オーストリア元首相は、ヴィーゼンタール氏がオーストリアに泥を塗ろうとする「とあるマフィア」の一員であり、ヴィーゼンタール氏は生き延びるためにナチに協力していたと非難した。ウィキペディア日本語版によれば、ヴィーゼンタール氏はクライスキー元首相が組閣したとき、数人の閣僚が過去にナチ党員だったことを指摘した。一方で、ヴィーゼンタール氏はクルト・ヴァルトハイム元国連事務総長・オーストリア元大統領が、第二次世界大戦中ドイツ国防軍将校だったことを咎めることは拒否した。このため、ヴィーゼンタール氏は、アメリカのいくつかのユダヤ人団体といくらか疎遠になった。
反応
イスラエルのモシェ・カツァヴ大統領はヴィーゼンタール氏を「この世代の最も偉大な闘士」と呼んで称えた。カツァヴ大統領は滞在先のラトビアで「ヴィーゼンタール氏は道徳と人類愛を体現していた。ヴィーゼンタール氏は自由世界、民主主義世界を体言していた。人種差別、反ユダヤ人主義、ナチズムと闘うために生涯を捧げ、時代のためによりよい世界を作ることにまさしく貢献した」と語った。
ハンガリーの首相ジュルチャーニ・フェレンツ首相は「人類は乏しくなってしまった。正義の人、サイモン・ヴィーゼンタール氏がいなくなってしまったからだ」と語った。
ドイツのホルスト・ケーラー大統領は、ヴィーゼンタール氏が正義を追求し、「復讐や憎しみを求めたのではなかった。このことは深い人類主義によって彩られた人間性の現れだった。ヴィーゼンタール氏は絶え間なく暴力に満ちた不正と闘うための模範でありつづける」と語った。
英語版ウィキニュースからの翻訳に基づきます。
出典
- "Obituary: Simon Wiesenthal". BBC News, September 20, 2005
- "Simon Wiesenthal, 'conscience of the Holocaust,' dies at 96". Haaretz, September 20, 2005
- "Der Held des Lebens ist tot". Der Spiegel, September 20, 2005