富岡製糸場が世界文化遺産登録決定

【2014年6月22日】

明治期の富岡製糸場外観(PD 吉川弘文館「明治の日本」より)
現代の富岡製糸場外観(PD 2010年撮影)
田島弥平旧宅(CC BY-SA 3.0

NHK[1]によると、カタールで開催されている国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は現地6月21日に、日本で初となる官営の製糸工場である群馬県の「富岡製糸場絹産業遺産群」について、世界文化遺産への登録を正式に決定した。委員会は「富岡製糸場にフランスの技術が導入されたことで、高品質の絹の大量生産が可能となり、日本の近代化の鍵となった」としている。

読売新聞によると、富岡製糸場は1872年に明治政府が輸出品の生糸産業振興を目的に開設した日本初の官営製糸場で、フランスから取り入れた技術を応用して独自に発展させた養蚕(ようさん)の技術と絡ませて、絹を世界的に大衆化させるきっかけになったが、1987年に創業を停止。その後も製糸場や繭倉庫などの建物はそのまま保存されている。産経新聞[2]によると、今回登録される「富岡製糸場と絹産業遺産群」は製糸場本体のほか近代養蚕農家の原型となった「田島弥平旧宅」、養蚕技術の教育機関である「高山社跡(しゃたく)」、岩のすき間からの自然の風を使って蚕(かいこ)の卵を貯蔵する「荒船風穴」で構成されている。

NHK[1]によると、富岡製糸場の世界遺産登録が決まると、この審査の様子を現地で見守っていた大澤正明群馬県知事は「大きな名誉であると同時に、保全に向けて全力を尽くすことを表明したい」と述べた他、下村博文文部科学大臣は「富岡製糸場と絹産業遺産群が日本と西洋の技術交流を基に果たされた、技術革新の顕著な事例として、高く評価され、登録されたことは大変喜ばしい。人類共通の宝である貴重な世界遺産の保護に万全を期して、後世に確実に引き継ぐとともに、積極的に発信していく」と述べている。また、問題点もあり、製糸場の敷地内にある110の建物のうち、れんがづくりの2つの繭倉庫は、築140年余が経過し、老朽化が激しいところもあるため、富岡市は施設の修復・改修に当たるとしているが、すべての建物の修復には100億円もの費用や30年の期間がかかり、どのように作業を進めたり、費用を捻出するかが課題とされている他、110の建物のうち、現在市民に一般公開されているのは繭工場のうちの1棟と、生糸の生産工場の計2棟しかないため、当時の状況が見学者にわかるようにするために、より多くの施設の公開も求められるという。

読売新聞によると、これにより日本の世界遺産登録は、昨年登録された富士山に続き18件目(文化遺産に限れば14件目)となった。加えて、産業や土木などの近代化遺産としてはすべての世界遺産を通して日本初となった。また産経新聞[3]によると、日本政府はさらに来年、「明治日本の産業革命遺産 九州山口と関連地域」の世界遺産登録を目指していると報じている。

地元やゆかりの地では

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渋沢栄一(PD
 
尾高惇忠 (PD

別のNHKの記事[4]によると、富岡製糸場の世界遺産登録が今回決まったことを受け、翌22日、あいにくの雨にもかかわらず、同製糸場の入り口には観光客が500m余の長蛇の列を作った。同市は「22日の来場者は例年の日曜日の約5倍に当たる5000人が訪れると見込まれる」としてボランティアの案内スタッフを増やしたり、マイクでの説明を行うなどの対応に追われている。

更に埼玉新聞によると、この富岡製糸場につながりが深いとされる埼玉県深谷(ふかや)本庄の両市でも世界遺産登録の祝賀ムードが漂い、小島進深谷市長吉田信解(しんげ)本庄市長も「観光に弾みになる」として、世界遺産登録を歓迎する意向を示している。深谷市は同製糸場の建設に携わった渋沢栄一、初代場長の尾高惇忠(しんちゅう)、建設の資材調達のまとめ役を務めた韮塚(にらづか)直次郎の3人を「深谷の3偉人」とたたえている。また本庄市も「競進社模範蚕室」や「旧本庄商業銀行煉瓦倉庫」などの富岡製糸場に関係した施設がある。NHK[5]によると、深谷市では世界遺産登録を祝う会が行われ、小島市長が「富岡製糸場を今の時代まで保存してきた関係者に感謝します。これからも富岡市と一緒に地域を盛り上げていきます」と述べた。

情報源

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記事出典について
  1. 1.0 1.1 「『富岡製糸場』 世界文化遺産に登録決定」より(NHK)
  2. 「富岡製糸場、世界文化遺産に登録決定 富士山に続き14件目(1)」より(産経)
  3. 「富岡製糸場、世界文化遺産に登録決定 富士山に続き14件目(2)」より(産経)
  4. 「世界遺産登録の富岡製糸場にぎわう」より(NHK)
  5. 「富岡製糸場 ゆかりの深谷市で祝う会」より(NHK)