「ウガンダ、オボテ元大統領の遺体が帰国」の版間の差分

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デイリー・ネイションじゃなくてイースト・アフリカン(発行元は同じ)
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国葬の決定はウガンダで驚きと賛否両論をもって迎えられ、ウガンダに論争を引き起こした。1986年にクーデターで武力により政権を握ったムセヴェニ大統領は、オボテ元大統領政権下では反政府運動を率いていた。当時、国軍とムセヴェニ派の闘争により、民間人から数千人の死者が出た。ムセヴェニ派に加担していることを疑われた民間人が、軍により拷問を受けたり殺害されることが相次いだ。こうした経緯から、国葬の決定は政権側からの歩み寄りを示すものとして注目される一方、不満を呼び起こしている。
 
ウガンダの国営日刊英字紙「ニュー・ヴィジョン」は、オボテ元大統領の死の知らせが、オボテ政権下で殺害された犠牲者の遺族から歓迎されたことを伝えている。「ニュー・ヴィジョン」は、組織的な殺害が行われたルヴェトで、遺族たちが周囲にオボテ元大統領の死を知らせ、集まって宴会を開いたと伝えている。ケニアの週刊紙ストネイショアフリカン」はオボテ元大統領の率いた政党であるウガンダ人民会議は、大統領はルヴェトの事件に関与していないと主張していると伝えている。「ニュー・ヴィジョン」は、オボテ第二政権下での犠牲者の遺族が、国葬に不満を持っていると伝え、来年の大統領選でのムセヴェニ大統領の得票に響く可能性があると指摘している。一方で、「ニュー・ヴィジョン」は、ナショナリストによる社説を載せている。この社説では、オボテ元大統領の功績は偉大であり、政権の負の遺産を許し、国の基礎を築いた功績を認めるべきであると主張されている。
 
BBCなどは、独立以来、ウガンダでは平和的に政権移譲が行われたことがないことを指摘している。「デイリー・ネイション」の社説は、国葬が行われるものの、その日が国家の休日とされないことから、ムセヴェニ政権の提示した和解の姿勢が不十分であると指摘している。「デイリー・ネイション」によれば、ウガンダでは重要な人物の死去に際して、休日が設けられることが慣例となっている。また「メイル・アンド・ガーディアン」紙は、ムセヴェニ大統領がオボテ元大統領といれかわるように出国し、国葬時までに帰国するかどうか現在のところ不明であると伝えている。
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オボテ元大統領は生涯に2回亡命生活を送った。首相だった1966年、大統領と副大統領を追放して政権を奪取、憲法を停止して一党独裁体制を築いた。その後[[w:イディ・アミン|イディ・アミン]]参謀総長(当時)にクーデターで追われ、タンザニアに亡命を余儀なくされた。のち、アミン大統領の失脚後に帰国し、1980年再び大統領となり、再び一党独裁に基づく強権的な政治運営を行った。BBCはオボテ政権の人権侵害はアミン政権以上だったと評している。1985年再び国軍内のクーデターにより政権を失い、ケニアに逃亡した。その後、ザンビアに亡命していたが、病気治療のため入院した南アフリカヨハネスブルグの病院で10日死去した。80歳だった。
 
葬儀は、オボテ元大統領の故郷である、ウガンダ北部のアパック県アココロで行われる。首都カンパラからアココロは347キロメートル離れている。「ストネイショアフリカン」紙は、カンパラからアココロへ遺体を運ぶルートについて、現在のところ政府、ウガンダ人民会議、元大統領の遺族のあいだで合意がとれず協議中であると特派員の報告により伝えている。
 
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