「プロレスラーの三沢光晴選手急死 試合中に頭を強打」の版間の差分

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[[w:毎日新聞|毎日新聞]]によると、6月13日午後8時30分ごろ({{UTC|+9}})、[[w:広島県立総合体育館|広島県立総合体育館]]であった[[w:プロレスリング・ノア|プロレスリング・ノア]]広島大会の試合において、メインイベントのタッグマッチの試合に出場した[[w:プロレスラー|プロレスラー]]の[[w:三沢光晴|三沢光晴]]氏(46歳)が相手選手のバックドロップを頭に強く受けて倒れ、そのまま動かず心肺停止状態となり、緊急搬送された[[w:広島大学病院|広島大学病院]]で死亡が確認された。[[w:広島県警察|広島県警]]によると、三沢氏の死亡が確認されたのは同日午後10時10分({{UTC|+9}})。
 
三沢氏が対戦相手からのバックドロップを受ける際、受け身が十分にとれず不自然な形で落下しそのまま倒れこんだ。レフリーが異変に気づき「動けるか」と問いかけると「動けない」と返答したため、そのまま試合はレフリーストップで中断した。その後、三沢氏は選手などからの問いかけに応じず、呼吸が止まったことから心肺停止になったと判断したトレーナーや観戦していた医師が[[w:自動体外式除細動器|AED(自動体外式除細動器)]]などで蘇生を試みたが、心肺停止状態のまま病院に搬送された。
 
[[w:朝日新聞|朝日新聞]]によると、この試合を見ていたという広島市内の会社員の32歳の男性は「三沢氏がバックドロップをかけられる前に体がよろめいていた。三沢氏にいつもの体の切れがなく、疲れていた様子だったので大丈夫かなと思って試合を見ていました」と話している。また、[[w:スポーツニッポン|スポーツニッポン]]によると、三沢氏が意識不明となった瞬間、会場にいたおよそ2300人のファンからは「三沢、三沢」と応援する声が上がっており、搬送後も会場は騒然とした状態が続いた。
 
日刊スポーツと毎日新聞によると、三沢氏は[[w:北海道|北海道]][[w:夕張市|夕張]]生まれで[[w:埼玉県|埼玉県]]出身。[[w:足利工業大学|足利工大]][[w:足利工業大学附属高等学校|付属高校]]で[[w:アマチュアレスリング|アマチュアレスリング]]<!--フリースタイルの87kg級-->で[[w:国民体育大会|国体]]に優勝。その後[[w:全日本プロレス|全日本プロレス]]で<!--[[w:ジャンボ鶴田|ジャンボ鶴田]]選手の付け人を経て-->選手としてデビュー。[[w:タイガーマスク#2代目|第2代タイガーマスク]]として活躍した後、1990年にマスクを脱いだ。その後は超世代軍団を結成し、3冠選手権タイトルを獲得。2000年に全日本プロレス社長を辞任した後に、プロレスリング・ノアを結成。GHCヘビー級の初代タイトルにも輝いた。
 
==プロレスラーの試合中の死亡事故・過去の例==
スポーツニッポンの別の記事によると、日本のプロレスリングにおいて試合中における事故で死亡した例はこれまでに3件ある。
*1997年8月 [[w:JWP|JWP女子プロレス]]に所属していた[[w:プラム麻里子|プラム麻里子]]選手(当時29歳)が広島市であった試合中に頭を強く打ち、意識不明となったが、[[w:脳腫脹|急性脳腫脹]]により死亡した
*1999年3月 [[w:アルシオン|アルシオン]]の[[w:門恵美子|所属女子選手]](当時23歳)が[[w:福岡市|福岡市]]での試合にやはり頭を強打し病院に運ばれたが、同年4月[[w:硬膜下血腫|急性硬膜下血腫]]で死亡した
*2000年4月 [[w:新日本プロレス|新日本プロレス]]の[[w:福田雅一|福田雅一]]選手(当時27歳)も、[[w:宮城県|宮城県]][[w:気仙沼市|気仙沼市]]での試合中に動きが鈍くなって倒れ入院したが脳内出血で死去した
 
== 出典 ==